お食事

山海の幸、人の幸、美食家垂涎の味に酔う。

偉人が見染めた名湯に、身も心もときはなつ。

温かなもてなし、旅情あふれる湯の里の宿。

旅の想い出に彩りを添える、郷土の逸品。

目にも、体にも、心にも、感動サプライズ。

歴史と風土が織り成す、感激のひととき。

思いは深く、この地を愛する情熱人たち。

後世に語り継ぐ、豊浦ゆかりの偉人列伝。

本場下関ふく料理

豊かな海が届けてくれる味の芸術品

お食事

日本でふぐは縄文時代から食べられていましたが、豊臣秀吉の治世に、ふぐ毒による中毒死が続出したため「河豚食禁止令」が出されたと言われています。
解禁されたのは初代内閣総理大臣・伊藤博文公が下関に訪問したのがきっかけです。
宿泊所であった春帆楼が、魚が取れず打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出しました。
出されたふぐを食べた伊藤博文公は、感嘆し、明治21年(1888年)に山口県令(知事)に働きかけてふく食が解禁されました。

ふく食の禁止と解禁の歴史

《縄文時代》
ふぐは縄文時代から食べられてきた食材で、縄文時代の貝塚から、多数のふぐの骨が発掘されています。
《安土桃山時代》
豊臣秀吉が文禄・慶長の役(1598年)の際、ふぐを食べて死ぬ者が多かったため、「河豚(ふぐ)食禁止令」を出したといわれる。これ以後、ふく食が禁止されていく。
《江戸時代》
江戸時代に入ると、藩によっては藩士にふく食を禁じ、また庶民の間でも、自発的に口にしない人が多かったようです。ところが、下関では江戸時代を通じて日常的にふぐを食べていました。その光景は下関を訪れる旅人を驚かせていました。
幕末の下関の勤皇商人・白石正一郎の日記には、ふぐを酒の肴にしたことや、小倉藩にふぐを送ったことが記されています。また、ふぐの調理についても触れており、皮や骨をとり、身だけにして食べていたことがわかります。
《明治時代》
明治時代になると全国的に生ふぐの販売が違警罪として禁止され、下関でもふぐを食べることが難しくなりました。
《ふく食の解禁》
明治時代に入ると全国的に生河豚の販売が禁止され、下関でもその美味しさを愉しむことが難しくなりました。〈明治15年(1882年)違警罪〉 ところが、初代内閣総理大臣・伊藤博文公が、下関を訪問し、春帆楼に宿泊した折、あいにく時化(しけ)のためまったく魚が獲れなかったので、女将は罰を覚悟でふくを御膳に出したところ、その美味を「一身よく百味の相をととのえ」と感嘆。
伊藤博文公は山口県令(知事)に対してふく食解禁を働きかけ、明治21年(1888年)から下関では大っぴらにふくが食べられるようになったということです。

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